「わらしべ長者」はおとぎ話?
「わらしべ長者」という昔話があります。
ある貧乏でどうしようもない男が夢をみる。夢枕に先祖が出てきて男にいう「明日朝起きて、最初に手に掴んだものを大切にしなさい。そうすればお前は成功する」。男は起きて、ありがたいことをきいた、この言いつけを守ろう、と思いながら出かけるのだが、転んでしまう。思わずあっ、とつかんだものが「藁」だった。とんでもないものをつかんでしまった。藁ではどうしようもなかろうが先祖のいいつけだから仕方ない、握りしめたままとぼとぼ歩いていく。暇なので、たわむれに藁しべの先にアブをくくりつけてみたりして、うろついている。
そこに、わんわん泣き叫ぶ赤ん坊を抱えたお母さんがいた。赤ん坊がどうしても泣き止まなくて困り果てている。男はふと、アブをくくりつけた藁を差し出す。わんわん泣き叫んでいた赤ん坊がその「おもちゃ」をみて、ぴたりと泣き止み笑い出す。お母さんは男にたいへん感謝して、藁の代わりにみかんをくれる。
みかんは藁より価値がある、少しはいいこともあったかな・・・と思いながら男は歩いている。すると、道端に行き倒れている娘さんがいた。喉が乾いて死にそうだ、という。男はみかんを差し出す。たいへん感謝した娘は、代わりに美しい反物をくれる。高貴な娘さんだったのだ。
これはずいぶん高価なものになった、と思いながら歩いていると、病気の馬を抱えて困っている男がいる。反物を馬に交換して・・・家屋敷になって・・・以下省略。そんな交換をし続けて、男はついに「長者」になる。
(うろ覚えなので細かくは違っているかもしれません、ご容赦を)
経済的にみると、これは「等価交換」ではありません。お互いの持ち物が、もっといいと思うもの、に変わっている。「不等価交換」といったほうが適切なものになっています。しかも、ゼロサムではない。交換がなかった場合に比べて、明らかに二人ともそれまでもっていなかった何か新しいもの—価値(?)—を得ている。
わらしべ長者、テクノロジーに出会う
ただ、これはお伽話です。世の中、そんな風にうまくいくわけはない。そんなに都合よく、泣き止まない赤ん坊に困ったお母さんや、喉が渇いて死にそうな娘さんに出会うわけがない。たとえその手に大事に握りしめていても、藁はいつまでも藁のまま、朽ち果てていく。
けれどもし、そこにテクノジー・ネットワークがあったとしたら。この15年くらい、広告とデジタル・テクノロジーの掛け算のような仕事をしていて、そんな風に思うようになりました。
世界の至るところに藁を握りしめたこの機転のきく男がいて、そこらじゅうに泣き喚く赤ん坊がいて、困ったお母さんが無数にいる。
それが世界中でつながっている。
コミュニケーションの劇的な進化。無数の交換の提起。価値の可能性を問いあい、それが膨大に生まれ続ける「わらしべ長者」だらけの不等価交換経済の世界線。そこで何が起こるのか。
教科書に書いてあることって、ほんと?
「等価交換」という考え方は経済学では基本です。市場では、価値が同じものが取引される。
なにかの授業で習ったような気もします。ぼくも昔は、それはそうだ、と思っていました。価値が一緒だから交換する、当たり前だと。
しかしあるとき、なぜだかふっと、思いました。それ本当?
価値が同じものなら、わざわざ変えないのではないか? 面倒なだけじゃないか。
もっといいものだ、と思うから交換するんだよね?
そう思ってみると、どこかの教科書にあったこんな図が気になるようになりました。
買い手は安ければ安いほどたくさん欲しい(需要)。売り手は高ければ高いほどたくさん売りたい(供給)。市場では「需要と供給の一致」するところで値段が決まり、交換取引が起こる。
広告会社で仕事をしていた自分には、この話は納得がいきませんでした。これだと、買い手はどの商品を、どの値段ならどのくらい買いたいか、最初から知っていることになる。けれど、いつも仕事をしながら思っていたのは、消費者はそもそも自分が何を欲しいのか、わかっていることのほうが稀だということです。消費は、もっと気まぐれなのです。何かのきっかけで急に欲しくなる。興味なかったのに、値段が高いのをみて欲しくなることすらある。売り手もそうです。商品の価値なんて、誰にも最初からわかっているわけではないのです。
大体、最初から消費者が何をどのくらい欲しいのか決まっているなら、自分たちはなんのためにもっといいアイデアはないか、とこだわって徹夜してたのだろうか(いまは「働き方改革」でしてないでしょうが)。それはただの虚しい、余計な仕事だったのだろうか?
『価値創造する市場 テクノロジーが紡ぐあたらしい交換(コミュニケーション)』
そんなことを考えながら、ぼくは大学院で経済学史や情報学、社会学を学際的に研究し、博士論文を書きました。それがこんな本になりました。
https://www.keisoshobo.co.jp/book/b10134700.html
アイデア、工夫、世の中のあらゆるものに新しい光を当てて、誰も思いつかなかった価値を提案しあい、気づきあい、認めあう。その連続が社会に価値をうむ。
市場は、そのためにある。
広告やマーケティングのノウハウ本ではありません。けれど、広告やマーケティングは何のためにあるのか、それを長く仕事にしてきた自分や、自分の仲間たちに、仕事の意味を話したい、あのころ徹夜していたのは決して無駄ばかりではないのかもしれないと言ってみたいという思いもありながら、この本を書きました。
今日もどこかで誰かが、戯れに藁にアブをくくりつけ、あてもなく歩いている。彼が歩く道には無数の取引候補者が連なり、みかんをもつ泣き喚く赤子や渇きに苦しむ娘が大量高速にネットワーク上に明滅している。さあ、ぼくたちの仕事は何か。
これはほんの、さわりです。つづきは、また今度。