20世紀の唯幻論からうまれた、2025年の私的幻想 ―国政選挙の翌日に

一世を風靡した岸田秀の「唯幻論」は20世紀後半の議論だ。戦後も安保も記憶から消えかけている2025年、国政選挙の翌日の今、それを読み直す。
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人は誰しも、必ずしも意のままにはならない身のまわりの環境に「意味」を見出しながら生きる。時にそれは現在の妥協であり、過去の悔恨であり、未来への希望である。溶けきれなかった意味の雪片は「私的幻想」として心の底に降り積もる。
人は人に囲まれて日々を生きる。人はそこで、自分の「私的幻想」をまわりの人と共有できる可能性を見出す。そこに「共同幻想」がうまれ、社会がうまれる。共同幻想は私的幻想を養分にして育つ。だがもちろん、私的幻想の全てが受け入れられるわけではない。共同幻想に昇華されなかった私的幻想は心中に深く沈みゆき、つめたい塊となってうずくまる。
共同幻想はたくさんの私的幻想を部分的に吸い上げつつ、現実に適合しようとする。それはそれぞれの私的幻想と現実とを、ともに少しずつ裏切った、妥協の産物である。いきおいそれは不安定になる。
その不安定さから逃れるために、共同幻想は常に拡大を求める。幻想に不可欠な全能感は、ゴールを先延ばしすることによってしか保たれない。できてないことは、できるはずだ、という認識のもとでしかごまかせない。国家の繁栄も、会社の成長も、劇団やバンドの栄枯盛衰も、どれもこの共同幻想の延命と尽きる寿命のメカニズムのもとにある。
共同幻想は閉じた空間では崩壊しやすい。延命のためにそれは常に動き、膨張を志向する傾向がある。共同幻想は現実ではない。多かれ少なかれ歪んだ現実認識である。だから膨張すればするほど、現実との乖離は大きくなりやすい。それは軍隊の指揮官のジレンマに似ている、と岸田はいう。勝ち続けるために情勢判断を歪めて戦意を高揚させる。そのために共同幻想はますます現実から離れ、病的になっていく。
いまは、どうか。
共同幻想の膨張が病的となったとき、それを止めるのは理性の現実認識ではない。共同幻想は、現実との乖離を問題としない。乖離しているなら、それが解消する未来を提示し、幻想を強化するだけだ。私的幻想を吸い上げいきいきと育った共同幻想には、現実認識という攻撃で致命傷を与えることはできない。ナチスも日本軍もトランプも、そのリーダーが狂っているのではなく、それを支えているのは私的幻想を養分とした共同幻想である(トランプは、自分が言ったことが間違いで、いくらそれを指摘されても、全く気にしない。それは「より先の」現実=幻想からみれば些細なことだからだ)。
共同幻想は、現実から強引に叩き潰されるか(例えば敗戦)、下位の/周縁の共同幻想に掘り崩されるか(典型的には革命)によって寿命を迎える。抱きかかえていた私的幻想の束はばらばらとほどけ、各人の心に舞い戻り沈潜し、再び浮上できる機会をうかがっている。
流血の事実でしか共同幻想の暴走をとめられない。歴史的事実だがあまりに痛い。戦争か世界恐慌かでしかトランプをとめられないというのは、ありそうなことではあるがつらい。他の道はないのか。
岸田は意味のレベルにある現象として「コミュニケーション」をあげている。意味は環境とコミュニケートする「私」にうまれる。それは私にとって与件ではなない。それは常に変化する可能性をもっている。私的幻想そのものも孤立しているわけではない。私的幻想は環境としての人とのコミュニケーションによって揺さぶられ続ける。そして、それはたとえ細い脈であってもそれを通じて共同幻想へと昇っていく。
戦争のオルタナティブとしての平和、という共同幻想はきっと、弱い。欲望の挫折の積み重ねとしての私的幻想を、それはうまく汲み取れていない。それは理屈でしかなく、外的現実認識でしかなく、社会的な「外的自己」にすぎない。欲望を吸い上げながら共同幻想を飼いならす、なんらかの作戦を、持たなければならない。
政治、熟議はその解決にならない。議論は常に「外的自己」だからだ。ぼくは、広義の「市場交換」の可能性をそこに見出そうとしているが、どこまでいけるだろうか。
言葉には限界がある。だが市場はあらゆるものを受け入れる。交換はその意見表明だ。
一人ひとりの生が社会の共同幻想に昇華し、それが人にもどっていく。その回路をどのように確保するか。どんな社会をつくるか、を目的とするのではなく、どうつくるか、を大事にすること。答えではなく問い続ける社会。ルーマンはそれを「目的合理性とシステム合理性」と呼んだと考えよう。新しい社会のシステムを構想しなければならない。
星新一の経済学 —それはお金で買えますか?
星新一の「ステキな世界」
星新一のショートショートに「マネー・エイジ」というお話があります(『ボッコちゃん』所収)。

主人公の女の子「あたし」が暮らす世の中は、なんでもお金で解決できます。お休みの日にお父さんに遊びに連れて行ってもらうはずの約束を破られたから、泣きべそを見せて金貨1枚をゲット。学校の前でいじめっこにからまれたら銀貨1枚わたして何事もなく通過。バスで立っているおばあさんに席を譲ったら代わりに銀貨2枚をもらいます。何のためにいくら支払えばいいのか、相場が決まっているのです。大人はみな「計算機」をもっていて、どんなときにも、必要な価格がすぐわかるようになっています。
お詫びも、感謝も、他人に何かを頼むのも、学校の成績も会社の昇進も裁判も、すべて値段がついていて貨幣で決済されます。学校の先生はいいます。お金は社会の潤滑油です。昔は宗教や権力や主義や科学なんかで社会を動かそうとしてきたけれど、そんなのはうまくいきませんでしたね。いまも法律はあるけれど、刑務所はあっても服役者はおらず、死刑台はあるけど死刑は行われない。犯罪はひきあわない世の中になりました。しっかり勉強してくださいね。
1日が終わって「あたし」はベッドに入り、とりよせた計算機のカタログをワクワクする思いでながめます。「あたし」が欲しいのは子ども用の「罰金などの相場がすぐわかり、なにでどれくらいもうけたかの合計も、ボタンひとつですぐに出る」かわいい計算機。早く大人になって立派なワイロ計算機が使えるようになりたいな。
この世界では、人々は常に金銭的な価値を計算し、行動の基準とします。社会は賄賂と罰金によって統制され、金銭の多寡がそのまま個人の権力や幸福に直結する未来が風刺的に描かれています。
これはディストピアですね。「あたし」は楽しそうにみえますが、読者の私たちからみるととてもステキだとは思えません。「すべてがお金で買える世の中」は不幸だ、というのは、たぶん衆目の一致するところでしょう。

お金がすべて、の世の中は?
ところで、ではそれはなぜ、なんでしょう? お金がすべての世の中は、なぜ幸せではないのでしょうか?
先日こういう話を書きました。
貧乏な男が、夢枕に出てきた先祖の話を信じて、朝起きて最初に手につかんだ藁をもって出かける。出会う人ごとにその人のために提案をし続けた男は、藁をみかんに、みかんを反物にと交換していき、最後は家屋敷を得て長者になる。これは交換による価値創造の話です。
そこでこんなことを書きました。
「もし、そこにテクノジー・ネットワークがあったとしたら。世界の至るところに藁を握りしめたこの機転のきく男がいて、そこらじゅうに泣き喚く赤ん坊がいて、困ったお母さんが無数にいる。それが世界中でつながっている」としたら。市場が社会を埋め尽くし、大量の交換が次々に価値をうんでいく世界線。

世界中で市場交換がおこっている経済社会。ぼくはこれをポジティブに描きました。でもこれって「お金がすべて」のディストピアと、何か違うのでしょうか。
違うのです。
「マネー・エイジ」の世界では、世界中のものごとすべてにあらかじめ値段がついています。そこにはアイデアも、工夫も、提案の余地もありません。何かをしてあげる、してもらうための値段は「計算機」がすみやかに示してくれるため、社会は円滑にまわる、とされています。
取引情報が一手に把握され高速に処理され、均衡最適により社会を安定運営する。テクノロジーが支配する透明な世界観です。その取引はすべて「等価交換」です。経済学の歴史でみれば、それは「計画経済」にあたります。
それがディストピアにみえるのは、その世界では何を考え、何をしたとしても、あらかじめ定められた価値の可能性が膨らむ余地がないからです。勉強しても、働いても、人のために何かをしてあげても、その値段はすべて、あらかじめ決まっています。
ですが本来は、人のために何かをするとき、それをしなかった時に比べて「何かが生まれた」ような気がするものです。勉強だってそうです。何が生まれたかはわからない、それが何になるか、はっきりはわからない、でも、する前には思いもつかなかったような何かが、確かに生まれている。
けれど、その値段が決まっているとなると、価値はもうそこで固まってしまい、あらたに生まれる部分は立ち枯れてしまいます。
市場交換の力
そしてこの「何かがうまれる」ということは、人への手助けや贈与、未来に向けた努力などにに限る話ではないということを、この本で書きました。市場でモノを「交換」する、という経済活動は、モノのまだ見ぬ価値を探し、みつけ出し、認め合おうとすることのはずだと。

市場の本質的意義は、誰もしらなかったモノの価値を発見し、膨らませていくことにあります。
マーケティングや広告も、それがなければモノクロだった世の中に、鮮やかな彩りを与えようとする市場の営みです。そしてそのような、これまでになかったいろんな所に市場活動が広がる世の中は、新しい価値づくりに挑み続けるいきいきとした社会であるはずです。
世界中のものが買える世の中、ではなく、世界中のものを、その都度、新たな価値を持つものとして買えるように生み出そうとする世の中。
それは決して、すべてのものに値札がついている機械的な世界ではありません。交換できるかできないか、その際(きわ)を問い、交換できなかったかもしれないもやもやした何かを世に生み出そうとする、いきいきとした創造の行為に満ちた世界です。
その世界では、お父さんから約束を破られた「あたし」は泣きべそをかきながらもそれがどんなに悲しかったのか、思わず訴えてしまいます。それはもしかすると、もっとステキな次の約束につながるのかもしれません。バスの中でおばあさんに席をゆずる「あたし」は、そこでしか受けられない貴重な授業を受講したことになるのかもしれません。
テクノロジーは世界を透明化するための道具ではありません。それとは逆に、人びとが交換の場で、あらたな価値を発見し、それを認め合いながら「価値創造」をし続ける社会をつくる、混沌を歩くためのパートナーであるはずです。
「価値創造する市場」、市場交換が社会を覆い世界中にわらしべ長者になる、というのは、世界中が「お金で買えるようになる」という言葉でイメージすることとはまったく逆のものなのです。
少し長くなりました。つづきは、また今度。
インターネットのわらしべ長者—「不等価交換」の経済学
「わらしべ長者」はおとぎ話?
「わらしべ長者」という昔話があります。

ある貧乏でどうしようもない男が夢をみる。夢枕に先祖が出てきて男にいう「明日朝起きて、最初に手に掴んだものを大切にしなさい。そうすればお前は成功する」。男は起きて、ありがたいことをきいた、この言いつけを守ろう、と思いながら出かけるのだが、転んでしまう。思わずあっ、とつかんだものが「藁」だった。とんでもないものをつかんでしまった。藁ではどうしようもなかろうが先祖のいいつけだから仕方ない、握りしめたままとぼとぼ歩いていく。暇なので、たわむれに藁しべの先にアブをくくりつけてみたりして、うろついている。
そこに、わんわん泣き叫ぶ赤ん坊を抱えたお母さんがいた。赤ん坊がどうしても泣き止まなくて困り果てている。男はふと、アブをくくりつけた藁を差し出す。わんわん泣き叫んでいた赤ん坊がその「おもちゃ」をみて、ぴたりと泣き止み笑い出す。お母さんは男にたいへん感謝して、藁の代わりにみかんをくれる。
みかんは藁より価値がある、少しはいいこともあったかな・・・と思いながら男は歩いている。すると、道端に行き倒れている娘さんがいた。喉が乾いて死にそうだ、という。男はみかんを差し出す。たいへん感謝した娘は、代わりに美しい反物をくれる。高貴な娘さんだったのだ。
これはずいぶん高価なものになった、と思いながら歩いていると、病気の馬を抱えて困っている男がいる。反物を馬に交換して・・・家屋敷になって・・・以下省略。そんな交換をし続けて、男はついに「長者」になる。
(うろ覚えなので細かくは違っているかもしれません、ご容赦を)
経済的にみると、これは「等価交換」ではありません。お互いの持ち物が、もっといいと思うもの、に変わっている。「不等価交換」といったほうが適切なものになっています。しかも、ゼロサムではない。交換がなかった場合に比べて、明らかに二人ともそれまでもっていなかった何か新しいもの—価値(?)—を得ている。
わらしべ長者、テクノロジーに出会う
ただ、これはお伽話です。世の中、そんな風にうまくいくわけはない。そんなに都合よく、泣き止まない赤ん坊に困ったお母さんや、喉が渇いて死にそうな娘さんに出会うわけがない。たとえその手に大事に握りしめていても、藁はいつまでも藁のまま、朽ち果てていく。
けれどもし、そこにテクノジー・ネットワークがあったとしたら。この15年くらい、広告とデジタル・テクノロジーの掛け算のような仕事をしていて、そんな風に思うようになりました。

世界の至るところに藁を握りしめたこの機転のきく男がいて、そこらじゅうに泣き喚く赤ん坊がいて、困ったお母さんが無数にいる。
それが世界中でつながっている。
コミュニケーションの劇的な進化。無数の交換の提起。価値の可能性を問いあい、それが膨大に生まれ続ける「わらしべ長者」だらけの不等価交換経済の世界線。そこで何が起こるのか。
教科書に書いてあることって、ほんと?
「等価交換」という考え方は経済学では基本です。市場では、価値が同じものが取引される。
なにかの授業で習ったような気もします。ぼくも昔は、それはそうだ、と思っていました。価値が一緒だから交換する、当たり前だと。
しかしあるとき、なぜだかふっと、思いました。それ本当?
価値が同じものなら、わざわざ変えないのではないか? 面倒なだけじゃないか。
もっといいものだ、と思うから交換するんだよね?
そう思ってみると、どこかの教科書にあったこんな図が気になるようになりました。

買い手は安ければ安いほどたくさん欲しい(需要)。売り手は高ければ高いほどたくさん売りたい(供給)。市場では「需要と供給の一致」するところで値段が決まり、交換取引が起こる。
広告会社で仕事をしていた自分には、この話は納得がいきませんでした。これだと、買い手はどの商品を、どの値段ならどのくらい買いたいか、最初から知っていることになる。けれど、いつも仕事をしながら思っていたのは、消費者はそもそも自分が何を欲しいのか、わかっていることのほうが稀だということです。消費は、もっと気まぐれなのです。何かのきっかけで急に欲しくなる。興味なかったのに、値段が高いのをみて欲しくなることすらある。売り手もそうです。商品の価値なんて、誰にも最初からわかっているわけではないのです。
大体、最初から消費者が何をどのくらい欲しいのか決まっているなら、自分たちはなんのためにもっといいアイデアはないか、とこだわって徹夜してたのだろうか(いまは「働き方改革」でしてないでしょうが)。それはただの虚しい、余計な仕事だったのだろうか?
『価値創造する市場 テクノロジーが紡ぐあたらしい交換(コミュニケーション)』
そんなことを考えながら、ぼくは大学院で経済学史や情報学、社会学を学際的に研究し、博士論文を書きました。それがこんな本になりました。

https://www.keisoshobo.co.jp/book/b10134700.html
アイデア、工夫、世の中のあらゆるものに新しい光を当てて、誰も思いつかなかった価値を提案しあい、気づきあい、認めあう。その連続が社会に価値をうむ。
市場は、そのためにある。
広告やマーケティングのノウハウ本ではありません。けれど、広告やマーケティングは何のためにあるのか、それを長く仕事にしてきた自分や、自分の仲間たちに、仕事の意味を話したい、あのころ徹夜していたのは決して無駄ばかりではないのかもしれないと言ってみたいという思いもありながら、この本を書きました。
今日もどこかで誰かが、戯れに藁にアブをくくりつけ、あてもなく歩いている。彼が歩く道には無数の取引候補者が連なり、みかんをもつ泣き喚く赤子や渇きに苦しむ娘が大量高速にネットワーク上に明滅している。さあ、ぼくたちの仕事は何か。
これはほんの、さわりです。つづきは、また今度。